お釈迦様

死んで物質となり現実に還る。そして空と一体となる

死んだらどうなるのか?

わたしは死んだらどうなるのだろう? 生きるということは脳が動いていることである。それは本当なのか。ここで記事にすることは至極、個人的な死生観である。たった一人、わたしの死生観は最愛の旦那と共有されている。この記事は、わたしの死生観を広めたいという趣旨ではないことを最初に話しておきたい。というのも酷く矛盾するが人それぞれに死生観が異なっても良いと考えているからだ。死に直面する時に本気で信じられる死生観があるなら、それで良いと考えている。

ある程度、わたしの宗教的バックグラウンドを話しておきます。ただし、記事で伝えたいことは宗教性ではなく、個人的死生観です。わたしは日本キリスト教団のとある教会に10年ほど所属していました。しかし、仏教に惹かれ、教会を辞めてしまいました。仏教にもたくさんの宗派がありますが、特別な宗派には所属していません。もし仮に、宗派を決めなくてはならないとするなら、ブッダ派ということになるでしょう。キリスト教を否定仕切っているわけでもないのですが、仏教に興味があるという現状です。

さて、わたしの個人的死生観についてお話します。それはわたしは今、天国にいるということです。キリスト教のように、死んで天国に行くのではなく、今、この場所こそが天国という自由空間だと考えています。その説明は後述することにしまして、では死んだらどうなるのかと言いますと、死んで物質となり現実に還るのです。死んで灰になるその時、わたしは現実と等しくなるのです。更には、究極の抽象度であり、究極に情報量のない空と一体化します。眼の前にあるパソコンは空だと言うのと似ています。わたしの遺灰はもちろん空になるでしょう。

すなわち死とは、
「死んで物質となり現実に還り、空と一体化するということです」
死とは空になることだとシンプルに、言い換えることもできるでしょう。

空とは何か?

わたしは大阪に住んでいる主婦だとここで証しておきましょう。

さて、空とは何か? 話していきます。
わたしは今、自宅でPCモニターを見ながらこの記事を書いています。さて、PCモニターの居場所を抽象度を上げて考えてみましょう。

このPCモニターは大阪に存在します。
更に、このPCモニターは日本に存在します。
更に、このPCモニターは地球に存在します。
更に、このPCモニターは太陽系に存在します。
更に、このPCモニターは天の川銀河に存在します。
更に、このPCモニターは宇宙に存在します。
更に、このPCモニターは空に存在します。

抽象度が上がると、情報量は下がります。このような関係を数学的に言うと、包摂半順序と言います。となれば、もっとも情報が少ない空は宇宙をも包摂することになります。更には宇宙より抽象度が高いということが言えます。空の中にすべてがあるということになるわけです。

すべては空である。考えてみると当たり前のこととなるわけです。空とは究極の抽象度であり、究極に情報量が少ないものである。そしてこれ以上の究極の抽象度はないというのがブッダの発想です。

死んで空になるとはどういうことだろう?

わたしは先に述べました。死んで物質となり現実に還る。そして空と一体となる。

よく、仏教でこんなことを言いますよね。どんな罪人も死んでしまえば仏様。悪人も罪人も亡くなってしまうと仏様になるのだと。この考え方はどこから出てくるのか。それを知ることが、この節の答えとなります。

わたしたちは生きている間、善人だとか、金持ちだとか、悪人だとか、殺人者だとか、様々な生に纏わるデーターベースを持っています。しかし灰になってしまうと、ただの物質になります。灰に向かってやい!人殺し!と言っても何の意味も持たないのです。わたしの仮説、死んで物質となり現実に還るが正しいとすれば、死とは現実に還ることです。それは物質になることですし、空になることです。なぜならすべてを包摂する空にあなただった物質も含まれるからです。

死とは物質化することであり、空になることです。
空を悟ったものをブッダと言います。
ということは、死とはブッダになることなのです。

死を悲観することは何もないのです。やがて誰もが死にます。その時、ブッダになるのですから、死が来ることを楽しみながら受け入れましょう。あなたは物質となり、空と一体化し、ブッダになるのです。これをわたしは現実と読んでいます。

死の先にあるものが現実だとすると、今あるこの世界は何なのでしょうか。このことに関しては現在も研究中なのですが、大まかな答えとして今、わたしたちが存在している場所こそ天国だと考えています。もうちょっと別の言い方をすると「あの世」が現在で、死後に現実が待っているということです。

更には、最近の物理研究の権威の一人であるロジャー・ペンローズという人が、宇宙は輪廻するということを言っています。ロジャー・ペンローズは2020年のノーベル物理学賞を受賞したイギリス人です。とっても面白いって、わたしは思いました。

輪廻転生の本当の意味

最初に理を書いておきたいと思います。イエス・キリストもブッダも輪廻転生を否定しています。特にブッダは輪廻思想を中心に据え置くヒンドゥー教の否定から出てきた人です。

わたしが考える輪廻転生も皆さんが考える輪廻とはまるで違うものだと思います。それって輪廻ではないのでは?なんて言われそうです。

さて、個人的に考えている輪廻とは、わたしの遺灰が何かの折に動植物の中に入った時、わたしは動植物の一部として機能するという輪廻です。動植物の糧として100の生き物の中にわたしの灰が有効に機能するなら、わたしは100の輪廻をしたということになるわけです。ただし、灰であるわたしの思考なんて、一切ありません。粛々と物質的機能として動植物の中で働きます。

「働く」ということが小さな小さな命の第一歩だと考えています。本当はと言うと、個人的には土葬がいいんです。お墓とかではなく、木の下にわたしの死体を土葬したり、海にわたしという死体を流してもらう方がありがたかったりします。似ている発想としてはインド人のガンジス川での弔いの仕方がしっくりすると言った感じです。

輪廻とは空になったわたしたちが動植物の中に再取り込みし、粛々と働いたり機能したりすることです。

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悪魔の一般化と天使の個人思索

わたしは個人思索と一般化思想について最近、よく考えている。個人思索は当然のことながら個々人がそれぞれに持っている。その思索は概ね優れたものだと考えている。良し悪しにバラツキはあるだろうが、個人思索は建設的な思考の場合、個人のベストの思考であり、そして個性が映える行いだと考える。多くの人達と思考する場面を想像してみよう。時に新しいアイデアが現れるという状況がある。これは共同作業に於いて、非常に高い価値のある利益になる。新しい思考は人との関わりから生まれることもあるだろう。しかし今回、私は共同作業が生み出すマイナス面に敢えて目を向けたいと思っている。

共同作業に於ける最大の害は、一般化されてしまうことにある。コミュニティの規模が大きければ大きいほど、一般化は人々に影響を与える。例えを出そう。現在のテレビの凋落問題がそうだ。テレビ局に務めることができる人物は概ね学歴が高い方だろう。彼らが個人思索に耽けるなら、中々の想像力を持ちそうだ。しかし、テレビ放送はそうではない。見る価値のないような番組を視聴者に胡麻を擂るように、誤魔化しながら、垂れ流している。なぜ、そうなるのかというと、テレビ局がターゲットにしている人達は最下層IQの人達だからだ。IQの高い人がテレビを見れば、最下層へ導かれてしまうだろう。

わたしの知人に元電通の方がいる。その方はわたしが本を読んでいると、「本を読むな!」と本気で怒る。なぜ、彼はわたしに本を読んでほしくないのかしばらく分からなかった。いつの日かそのことを理解したのだが、電通にはB級戦略というものがあるのだそうだ。B級戦略とは日本人のIQを下げることによって、テレビを見る需要が増やすという戦略だ。詳細を省くが様々な方法で日本人を劣化させようと電通の人達は今も努力している。まさか元電通の知人が、わたしにもB級戦略を仕掛けるものなかのかと、余りにも驚いたものだ。

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ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム (Wikipedia)
https://onl.sc/z9qTXxS

GHQが日本を統治しているときに、GHQは日本人を平和で役立たずの人間たちにしていく洗脳作戦を実行したことは大変有名な事実である。この洗脳作戦のことを「War Guilt Information Program」と言う。この中で有名な洗脳制作の1つに3S制作というものがある。「Screen , Sports, Sex = 3S」である。よくよく考えてみるとこの3つは現在、日本に浸透し過ぎなほどに浸透している。なぜ、3S制作をGHQが実行したかと言うと、先にも述べたように日本人のIQを下げるためであった。

電通はこのGHQ由来の洗脳方法を未だに強く施行している。わたしの元電通の知人もそうだった。WGIP(War Guilt Information Program)の思想はやがて電通のB級戦略に繋がっていることは言うまでもない。

男性はこうだ、女性はこうだ、一般的にはこうだ、常識的にはこうだ、普通ならこうだ。テレビで繰り返される一般化。そのうちに視聴者はそれが当たり前のことなんだと思うようになる。そして、冒頭で述べた個人思索を忘れ、○○社会という一般化された中で埋もれていくようになる。テレビが人間に与える害悪は私は甚大なものだと思う。「正しい・正しくない」ということは、簡単に決められることではないし、テレビが与える一般化情報に対して無防備で居続けるならば、日本にはテレビがたくさん歩いているようなものだ。非常に機械仕掛けであり、またそれは、フランツ・カフカの「変身」のような、ニコライ・ゴーゴリの「鼻」のような世界である。現代では芋虫でも鼻でもなく、テレビが歩いているのかもしれない。

Youtubeでも一般化を押し広げようとする試みが多く見られる。この時、注意したいことは発信者が面白いことを発言していても、それを真似したらロボットのようにその思考になるということだ。インフルエンサーの一人である’ひろゆき氏’の意見は面白いのだけど、ひろゆき氏の言葉を真に受けて行動する人は、ひろゆきのロボットである。インフルエンサーだけではなく、Youtubeの多くの人はテレビの二の舞をしている。役者が増えた一般化と言えよう。

多くの人が集まれば集まるほど、人々は一般化したがる傾向がある。この一般化の中に身を置いてしまうと、一般化から外れることが困難になる。なぜなら一般的ではないことをしないとあなたは一般化の世界から飛び出せないからだ。

ここで、わたしからの提案がある。冒頭でも述べたように個人思索が一般化を台無しにしてくれるということだ。個人思索は自由なあなただけの発想を持っている。孤独に思えるかもしれないが、それを押し広げて個人思索を形にする、具現化するということが一般化から離脱する最高の方法ではないかと考える。